2013/07/02
Shostakovich - Symphony No. 5
敢えて、ゲルギエフ指揮のショスターコーヴィッチの「革命」を聴く。
初演がムラヴィンスキーの演奏によること、作者のもと演奏された訳で、ムラヴィンスキーの演奏の方が作者の本意が伝わってくるはずでありますが。
ですが、敢えて、ゲルギエフの指揮で聴きたいのです。ゲルギエフの音楽性は非常に奥が深く、情感豊かで、内容が緻密であり、曲を具現化することが非常に巧みに感ぜられるのです。彼のチャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」序曲は、カラヤンよりも民族性がよく出ていて非常にバランスの取れた豊かな演奏になっていますよね。
ピアニストにも自己の中で「革命」のようなものがあるのでしょうか。
わたしが知る限り、「革命」を身を以て感じたのは、ラフマニノフ、ホロヴィッツ、ポリーニ(政治上ではなく音楽性やテクニック面で)辺りです。
バランスよく弾きこなしているのはアシュケナージでしょう。アシュケナージの演奏でわたしが大変好むのはベートーヴェンです。後期のソナタはポリーニで聴きますが、あとはアシュケナージの演奏が分かりやすいですね。しかし、作曲法や当時のテンポなどから考えると、ポリーニの演奏法が正解の一つなのかもしれませんけど。
音楽は常に「変化」や「一種の革命」を体験し具現化するのが常かもしれません。
話は変わりますが、霞ヶ関の官僚もクラシック愛好家が多いのです。
主人は違いますけどね、うまいか下手かはピアノでもオーケストラでも分かりますよ。
主人の元上司はマーラーの愛好家です。オケは行ける限り鑑賞に行くようです。
政治は変化しますね。それは陰で官僚が変化させるシナリオを書いています。政治家とともに官僚も変化し、国のために精一杯の知力を持ってエネルギーを注いでいるわけですね。
変化と言えば、某省にて女性が初の事務次官に就任となりました。大いなる喜びです。
わたしはもう社会に羽ばたく事はできないけれど、こういうお話が耳に入ると、とても清々しい気分になりますね。
わたしの中でも「革命」が起こるといいのですが。
ゲルギエフが指揮を教える場面を思い出すとともに、カラヤンのリハーサル風景の場面が頭の中にフラッシュしてきました。彼が「革命」を演奏しなかったのはなぜだろう。
ポリーニのカラヤンは近代音楽以降は理解できなかった、といったような発言を、とある音楽雑誌の対談インタビューで見掛けましたが、本当にそうなのでしょうか。
サイモン・ラトルは素晴らしいと思います。でも、彼はカラヤンの残した演奏法が受け継がれていて、それを演奏中に感じて、何か引きずる思いがあるそうですね。彼は本当は、ベルリン・フィルの中で「革命」みたいなものを起こしたいでしょうにね。
Nikolai Lugansky(再生リスト)
今、ラフマニノフを聴くなら私個人としてはニコライ・ルガンスキーがベストです。
この演奏に対して、記事となる内容は日本人としてすごく恥ずかしいものとなりますが、敢えて、日本人が日本人をよく知るために書くことに決めました。
日本にはカルト宗教まがいのものがあります。その代表的なものは、世界中で知れ渡っているものだと思います。
わたしの一族、主人の一族は全く関係しておりませんし、純粋な日本人の血筋です。
この宗教まがいの人たちと関わったら、ものすごい目にあわされます。
わたしが知っている限りで、嫌がらせです。盗聴、騒音、苦情を言いに行くと居留守、怪しい人間を訪問させて金を払わせようとする、などです。プライドが異常に高く、自分の意に添わない者は、徹底して攻撃し、自殺に追い込むかなど死に至らしめようと企みます。
彼らは宗教にお金を異常に使っているので、収入の割にひどいみなりです。
わたしは彼らに言いたい。
同じ民族同士でなぜ、少しでも気に入らないからといって陥れたりいろいろ小細工に励むのか。それが神に認めてもらう行為だと勘違いしているのがすごく歯がゆいです。
世界では、多くのピアニストたちが、国や人種の垣根を超えて素晴らしい芸術を聴かせてくださっているというのに、彼らときたら、このピアニストたちの演奏がどう聴こえるのか知りたいですね。
日本人は何か偏見を持つ人が多いのは、人生40年生きてきて身にしみて分かります。
日本人は集団になりたがります。これが良い意味ならいいのですが、悪い意味でとなると、
最悪の状態となります。だから、アメリカに爆弾を落とされてもある意味仕方ない部分もあるのではないか、と個人的には思います。被害者の方には気の毒で仕方ないですが。
原爆ドームに行ったり、生存者の方のお話を聞いたりしました。あまりの凄惨さに、絶句してしまいました。しかし、アメリカが事を起こさなかったら、戦争は終わらなかったと思います。
戦前の日本も大したものだと思います。あのナチスと手を組んだのですから。神経が分かりません。学校で歴史の教科書を読んで、いつも不思議でなりませんでした。
でも、その凄惨さがあるから、いろいろなカルト宗教まがいが生まれるのでしょう。
「平和な国の実現」と謳いながら、実は、嫌がらせやりまくり、盗聴しまくり、ストーカーしまくり、実生活をおびやかす行動をやっているのです。その判断基準とは?ある信者にとって気に食わない人間がいて、自分にとって気に食わない原因があればそれでいいのです。
これは宗教の原理の一つであって、実は、われわれ日本人の多くに内在する、群集心理のようなものではないかと思っています。
なぜ疑問に思うのかというと、人生においてわたしにとってはすごく疑問なのに、周囲の人間はそうではなかったり、むしろ、「不条理」が当然よ、のような経験をし続けてきたからです。
だから、大学では英文学が主専攻でしたが、「不条理」について徹底的に追及しました。
大学というと日本では入るのが大変で出るのが容易いという傾向ですが、それは共学の大学のみです。わたしは女子大卒です。女子大は猛烈に勉強させます。というか、自然にそういうプログラムになっているのです。なので、勉強しなければ卒業できません。わたしの母校は、毎年1割以上卒業できません。
「不条理」これが、わたしの卒業研究のテーマになりました。
サミュエル・ベケットとデカルトの論理を対比して結論を何とか出すというものでした。
人間は「不条理」の塊なところもあるのではと感じています。
自分が病気になってみて、改めて感じさせされることは多々あります。
人間は「悪」の側面があり、それが十分認識されていないのか、それとも認識したくない性なのか、「悪」は「善」以上に横行している印象を人生において感じています。
でも、ここがわからなければ、クラシック音楽を作曲した作曲家たちの真実の姿を認識するのは永遠に無理だと思います。
戦前は迫真に迫る演奏がたくさんでしたね。現代でそういう演奏に接せられるのはごく一部に限られるのではないでしょうか。
そんな意味において、ニコライ・ルガンスキーの演奏は非常に貴重なものです。
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